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1:◆77.oQo7m9oqt:2017/10/12(木)00:52:10 ID:sHC
強い独自設定あり。
この作品はフィクションです。実在する地名、行事等々と作中のものには一切の関係がございません。
よろしくお願いします。
2:◆77.oQo7m9oqt:2017/10/12(木)00:52:50 ID:sHC



 おひさまみたいに笑う子だった。幼い心にそう思ったのが、少年の異国における最初の記憶だ。

 人通りの多い市民公園の中、レッドシダー製の茶褐色のベンチに腰掛けて少年は所在なく地面を見つめていた。視界にふとサンダル越しの褐色の肌が見えて顔を上げると、日光を跳ね返しそうなほどに白いワンピースが目に眩しかった。

「Vamos brincar!」

 不思議な呪文のように響く少女の言葉を少年が理解することは叶わない。まだ齢七つの少年にとっては日本語だけが言語だった。

 反応を返さない少年に、少女は笑顔のままこてんと頭を傾けた。

「Hay que jugar?」

 わからなくて、少年はかぶりを振った。

 少女の言葉は、どちらも『遊ぼう』という意味だった。ぼんやり俯いている少年が気になって仕方がなかったのである。歯を見せて笑う少女にとっては、少年の顔はとても退屈そうに映った。

「……なに言ってるのか、わかんないよ」

 一方の少女も日本語はわからない。呟くように言うと、少女は今度は逆側に首を傾げてしばらく、それから自身の胸に手を当てた。

「Natalia! …………ナターリア!」

 少女────ナターリアは、名乗るなり少年の手を取って駆け出した。

「えっ、ちょ、ちょっと……なになに!?」

 びっくりするヒマもなく無理やり立たされ、転ぶのは頼りない足でなんとかこらえた。

「どこ行くの!?」

 日本語の問いには答えず応えられず、ナターリアは声を上げて笑って、楽しそうにずんずんと走って行く。つないだ手はそのままに少年は引っ張られるのに任せて足を動かした。

 見える横顔は、やっぱりおひさまみたいだった。
3:◆77.oQo7m9oqt:2017/10/12(木)00:54:27 ID:sHC

 公園、と言っても少年たちが出会った場所には砂場やすべり台はない。

 日本の公園とは規模が違う芝生が一面に広がり、その中をレンガ道がうねうねと走る。道沿いに設けられるベンチに規則性はない。

 粗めの手入れがされた芝の上にはパウダルコの木があちらこちらにつっ立っていた。ブラジルの国花でありカナリア色の花を咲かせるそれは、今は緑の葉を茂らせている。

 舗装されている道には目もくれず、ナターリアは少年の手をしっかと握ったまま芝生の上を踏みしめた。子供の足で五分ほど。

 小さな噴水広場のそばを駆け抜け、精霊を模した奇妙な形の白色のモニュメントの横を通り過ぎて、木々の合間を抜けていく。

 なすがままに任せて辿り着いたのは、三十メートル四方ほどの小さな空間だった。

 まわりには風景を隔絶するように背の高いパウダルコが林立し、足元はゆえあって他の場所よりも芝が丁寧に刈られている。ナターリアが手を離した。

「ここ……なに?」

 自由になった手を膝につき、息の切れ間に少年は呟く。振り返ってナターリアはニコッと笑った。

「Vamos brincar!」

 だからわかんないってば。

 くちびるを尖らせる少年を尻目に、ナターリアはキョロキョロと辺りを見渡した。何かを見つけてさらに顔が明るくなる。その方向へまた走り出した彼女を反射的に追いかけようとして、

「ねえちょっと────うわっ!?」
4:◆77.oQo7m9oqt:2017/10/12(木)00:54:49 ID:sHC

 飛んできた何かに大げさにのけぞった。────サッカーボール? てんてんと跳ねて少年の足元で止まる。白と黒のコントラストが土に汚れて褪せているが、それは確かに古式ゆかしいサッカーボールだった。

 一緒に遊ぼう? とナターリアはまた言った。相変わらず言葉は少年にはちんぷんかんぷんだったけれど、状況のおかげで今度ばかりはその意図も通じる。

 いいのかな。

 笑顔でぶんぶん手を振るナターリアに向かって、少年はおそるおそる右足でボールをキックした。

 転がって返ってきたボールをサンダルの裏で止めて、ナターリアは心から嬉しそうに、咲くような笑顔を満面に浮かべた。

「Nice pass!」

 つられたように少年も笑って、面映ゆくなって頬をかいた。

 ナターリアが蹴って返ってきたボールを拙い足取りで止め、少年も「ナイスパス」と照れながら言った。
5:◆77.oQo7m9oqt:2017/10/12(木)00:55:17 ID:sHC



 その日、少年がリオの西部地域にある自宅へ帰り着いたのは、いつもより少し遅い時間になった。

 ナターリアも少年もサッカーが得意というわけではなかった。まだまだ短い未発達の手足で、蹴り損ねては走って取りに行き、トラップに失敗しては転んで、別れるころにはお互いに泥んこになった。

 ナターリアの白いワンピースは夕映えしそうもないほど土と芝でドロドロになってしまったが、それでも彼女の笑顔がくもることはついぞなかった。

「Tchau, Ate mais!」

 じゃあ、またね。別れ際に言われたそれがどんな意味なのか少年にはわからない。けれど満面の笑みで手を振ってくれたナターリアとは、きっとまたすぐに会えると彼は思った。

 ────楽しかった!

 家に帰るやいなやそう言った汚れきった息子に、母親は少々面食らった。どうしたのそんなに、とバスルームに連れて行きながら問うと、知らない女の子と遊んでいたのだという。
6:◆77.oQo7m9oqt:2017/10/12(木)00:55:52 ID:sHC

 越してきてから、少年はずっと退屈そうな顔をしていた。実際異国での日々は彼にはつまらなかったのだ。

 初めこそ物珍しさに目を輝かせたとはいえ、それを共有できる友人はおらず、親しんだ地には帰れず慣れない暮らしを強いられる。気を回そうにも出張してきた共働きの両親にはこちらに頼れる人もいない。

 母国から離れることが決まった日、両親は少年にごめんねと謝った。子供ながらにその意味を少しずつ察していく彼は見るに切なかった。

 よかったわね、と母親は優しい微笑みで息子を撫でた。うん、と歯を見せて少年は笑った。────でも明日からはもうちょっと汚れてもいい服を用意しようかしら。母親が台所に戻った後に苦笑したことは少年は知らないし、知る必要もない。
7:◆77.oQo7m9oqt:2017/10/12(木)00:56:13 ID:sHC



 約束を交わしていたわけじゃなかった。そもそも言葉は通じ合わないのでしようにもできない。それでもなんとなく同じ場所に行けばまた会える気がして、少年は翌日も同じ時間にパウダルコの小さな林に囲われたあの場所へ向かった。

 真新しい記憶をたどって小さな噴水広場のそばを駆け抜け、精霊を模した奇妙な形の白色のモニュメントの横を通り過ぎて、木々の合間を抜けていく。

 息を切らして着いてみると、昨日とは打って変わってなんだかやけに騒がしかった。木陰からひょいと覗くと見覚えのあるはずもない現地の大人の男が数人、少年たちが遊んでいたボールを使ってサッカーに興じている。

 とっさに木立に隠れた。胸があまり嬉しくないはずみ方をする。

 辺りを見回してみるもナターリアの姿はない。囲いの周りを一周ぐるりと回ってみたが、やっぱり彼女は見つからない。今日は来ないのだろうか、と少年の胸に不安が寄せた。せっかく、久しぶりに楽しみなことを見つけられたのに。

 それはぼくたちのなのに。

 たったひとりそんなことを言いに出て行けるわけもなく、戻ろうかな、と少し悲しくなって肩を落としてきびすを返すと、

「Ola!」

「うわあっ!?」

 振り返ったそこにナターリアがいた。おどかそうとワザとしのび寄って近くまで来ていたのに少年はまったく気づかなくて、大いにびっくりしてひっくり返りそうになった。
8:◆77.oQo7m9oqt:2017/10/12(木)00:56:52 ID:sHC

 いたずらっ子のようにけらけらと笑うナターリアにちょっとだけムッとしそうになりつつ、しかし再会できたのが嬉しくてそんなのは吹っ飛んだ。

「Ola!」

 ひと月も暮らしていれば、あえて勉強するまでもなくこれぐらいの意味は察せる。手をあげて言われているコレは挨拶だ。

 少年が同じように手をあげ「オラ?」とおずおず返すと、ナターリアも嬉しそうにまた「Ola!」と応えた。

 まったくもってなんてことないやり取りだが、通じた喜びがそこにあった。二人してしばらく挨拶の言葉だけを繰り返して笑い合う。

 存外子供の高い声はよく通る。たった二人でも楽しげに話していれば(会話にはなっていないが)近くにいる人に認知は届くので、

「────O que voces estao fazendo?」

 なにやってんだお前ら。

 そばでサッカーを楽しんでいた大人たちの一人がいつのまにやらすぐそこまで来て、おかしなモノを見るような顔で二人を見下ろしていた。公園の中心から外れているこの場所は寄り付く人が少ないから余計に子供の声が目立つ。
9:◆77.oQo7m9oqt:2017/10/12(木)00:57:14 ID:sHC

 訝しげな顔は少年には怒っているように見えた。会えて嬉しくて忘れてた、と見下ろす大きな影に彼の表情が凍ったが一方、ナターリアの屈託無い笑顔は変わらない。

「Ola!」

 少年に向いていた手をそのまま男の方にやって、同じ挨拶を繰り出した。

「Ah? Ola……Nossa, Natalia?」

「Sim!」

 男の表情がふっと変わった。目を丸くしてナターリアの顔をまじまじ見つめ、それからくしゃっと破顔した。

 男が振り返って手招きに仲間たちを呼んだ。ぞろぞろ集まってくる巨漢に少年は身を硬くしたが、男たちの興味はだいたいがナターリアに向いている。少年はやや取り残された感を覚えて手持ち無沙汰になった。

 男がナターリアの名を呼んだことは聞き取れたし理解できたので、知り合いなんだということだけがかろうじてわかる。いったいどういう関係なんだろう。怖じる様子もなく囲む男たちとにこやかに話す隣の彼女を不思議に思った。
10:◆77.oQo7m9oqt:2017/10/12(木)00:57:58 ID:sHC

「……Quem e ele?」

 ……ところで、これは誰。と不意に男の一人が少年の方を指差して注目が集まった。反射で小さく肩が震えたが、視線の意味はシンプルな好奇で嫌なモノではない。

「Um amigo!」

 男の問いかけにナターリアが即答すると、ほど近い位置に立っていた男が豪快に笑って少年の頭をぐりぐり雑に撫でた。それを皮切りに順繰りに男たちが彼の頭を撫でたり脇から抱き上げたり振り回したり。

 ────なんて言ったの、なにがどうなってるの。ハテナマークが彼の脳内を飛び交うも尋ねるすべは持っていない。

 なされるがまま、四方からもみくちゃにされながら連行され、気づけばナターリアも含めて男たちと一緒にサッカーをすることになっていた。少年の脳内の疑問符はとどまるところを知らないが、ナターリアも男たちも同じように陽気に笑っている。

 少年もすぐどうでもいいかと思うようになった。
11:◆77.oQo7m9oqt:2017/10/12(木)00:58:29 ID:sHC



 もちろん体格や技巧に大きな差があるので、男たちは手を抜いてほぼ戯れに近い。しかしそれでもやっぱり二人だけで遊んでいた昨日よりもずっと運動量は増えてキツかった。

 休憩がてら空き地のすみっこで少年は仰向けに寝転んだ。

 ちょっと顔を上げて様子を伺うと、ナターリアは変わらず男たちとボールを追っかけている。体力に差があるみたいだ。同い年ぐらいなのにな、と情けなさが胸ににじみそうだが、幼い彼に男女差という概念は薄い。素直な感嘆の息を吐いて改めて空を見上げた。

 空が青い。太陽は痛いほどに照っていた。肌がジリジリ暑くなって、冷ましてくれる風は時折に木の葉を散らして歓声の中を抜けていく。

 こちらに来てから、しばらくが経つ。なのに眼に映るものも耳に届くものも肌で感じるものも、今はすべてが新鮮でしかたなかった。

12:◆77.oQo7m9oqt:2017/10/12(木)00:58:55 ID:sHC

 寝転ぶ少年のすぐそばにおっ立つ木の幹に背中を預けるかたちで、一人の男が芝生に腰を下ろした。

 見下ろした目と見上げる視線がぶつかった。少年の丸っこい鳶色の目を確認するように一つ頷いて、男の口が動く。

「お前、日本人だな?」

 耳に馴染む言語に少年は目をパチクリさせた。褐色の肌に青い瞳、彫りの深い顔立ち。その男と聞こえた日本語は似つかわしくない。

 無言の意味をはかりそこねて「……違うのか?」と男は首を傾げた。

「ううん、えっと、日本人です」

「ああ、合ってたか。そうだよな」

「……おじさんも?」

「俺は違う。見た目でわかるだろ。日系三世なだけで国籍はもちろん血もほとんどブラジリアンだ────って、言ってもまだよくわからないか?」

 鼻で笑って、男は少年に透明なストローカップを差し出した。
13:◆77.oQo7m9oqt:2017/10/12(木)00:59:19 ID:sHC

「汗かいてるだろ。飲んどけ」

 体を起こして受け取った。ひんやり冷えているそれは公園の中心部で路地販売していたもので、浮いた結露が少年の手に心地よかった。よかったがしかし、

「……これ、なに?」

 見える中身の液体はやや緑がかった鮮やかではない黄色で、あまり少年にとって見栄えのいいものではない。尋ねると男は意外そうな顔をした。

「お前この国に住んでて飲んだことないのか? ……とんだモグリだな」

 モグリの意味はわからなかったが小馬鹿にされたことはわかる。気色ばんだ少年を横目に男は自分のカップから蓋とストローを外して直接口をつけた。

「カウド・ジ・カーナは……ええと、なんだ、サトウキビ・ジュースか。まあ飲んでみろ。ナターリアもよく飲んでる」

 ナターリアもよく飲む、という言葉にも引っ張られて、おそるおそるストローに口をつけた。

 口当たりに強めのストレートな甘味が、ついで鼻へ抜けるような柑橘系の酸味が舌を撫でた。後味は爽やかだがちょっとした青臭さもクセがあって、

「んんー……?」

 少年の舌にはおいしい、とはならなくて口をひき結んで頭をひねった。

 まずくはないけど、これをよく飲むの?

 味覚の差異が理解しがたい。露骨に表情に出た少年に、男は短く刈られた髪に手を突っ込んだ。
14:◆77.oQo7m9oqt:2017/10/12(木)00:59:39 ID:sHC

「あれ、うまくないか?」

「……うまくはないかも」

「本当かよ。日本人はわかんねえな」

 男は立ち上がって木立の間に入っていく。去り際に振り返って言い残した。

「ちょっと待ってろよ。……ああ、それは置いとけ、そのうち誰かが飲むだろう」

 男の背中を見送ってからもう一度ストローに口をつけてみたが、しかしやっぱりおいしくはない。言われたとおりにカップはそばに置いて賑やかなナターリアたちを見つめた。

 前へ後ろへ、ボールが自在に宙を舞っている。金髪を流した男が小器用にリフティングするのを、ナターリアはキラキラした目で見つめていた。

 一朝一夕では身につきそうもないテクニックで、男をスゴイと思うのと同時に少年はなんだかちょっと胸がざわざわしていた。────なんだかちょっと、面白くない。

 こっちに来ないかな。ナターリアの近くに行きたいがまだ疲れは身体を重くしていて、だからそんな都合のいいことを思った。
15:◆77.oQo7m9oqt:2017/10/12(木)01:00:12 ID:sHC

 なんの因果か偶然か、そう思った直後にたまたまナターリアが少年の方に目を向けて、視線がバッチリぶつかった。笑いかけられて一度大きく心臓が跳ねる。駆け寄ってくるのが見えてもう一度。

「Que calor, ne!」

 暑いね、とナターリアは言った。ひたいから頬を伝って顎へと滴る汗が綺麗に光っている。疲れ知らずに見えても疲労がたまらないわけもなく、彼女は少年の隣にちょこんと座り込んだ。

 ぱたぱたとタンクトップの襟元をあおぐ。それから目ざとく芝に置かれたサトウキビ・ジュースのカップを見つけて目を輝かせた。

「カウド・ジ・カーナ!」

 言葉はわからなくても飲みたいと思っていることはわかりやすすぎる。

「……えっと、飲む?」

 そのうち誰かが飲む、その誰かがナターリアでもいいだろうと思い手渡すと、彼女は喜んで受け取ってストローに口をつけた。お互いに間接キスを気にする年齢でもない。

 よほど喉が渇いていたようで、ナターリアは半分ほどをひと息に飲みきった。

「Obrigada!」

 とびっきりの笑顔が少年に向いた。よく聞く単語だ────どうしよう。なんて返せばいいのか、そもそもお礼を言われるべきは自分じゃない。ちょっと後ろめたい気持ちで曖昧に笑っていると、

「……De nada.だ」

「うわあっ!?」

 冷やっこいカップを後ろから頬へ当てられる。日系三世の男がまた別のジュースを持って戻ってきていた。
16:◆77.oQo7m9oqt:2017/10/12(木)01:00:38 ID:sHC

「ジ・ナーダ。ありがとうって言われたらそう言っとけ、どういたしまして、って意味になる」

「……ジ・ナーダ?」

「そうそう」

「でも、別に僕は何もしてないから」

「いいから言っとけ、子供が面倒なこと考えるな」

 諌めるような口調に言われるがまま、少年はナターリアにどういたしまして、と伝えた。彼女はもう一度ありがとう、と言ってそれからまたストローに口をつけた。

「ほら、これがお前のな。パインジュースならたぶんお前もうまいだろ」

 幼い二人の微笑ましい様子を半分笑いながら、男は少年にさっき頬に押し当てたカップを差し出す。中ではカウド・ジ・カーナよりも鮮やかな黄色が揺れていた。

「……! おいしい!」

「そうか。よかったな」

「うん! ……えっと、オブリガード?」

「Ah, De nada」と男は肩をすくめた。
17:◆77.oQo7m9oqt:2017/10/12(木)01:01:24 ID:sHC

 そのあとは少年と軽々会話をする男にナターリアが興奮したり、休憩を終えてまたサッカーに混ざったりとしているうちに太陽がオレンジ色に染まり始めた。

「Tchau, Ate mais!」

 昨日と同じようにナターリアは言った。

「じゃあまたな、ってよ」

 それを男が通訳する。少年はうなずいて「また明日」と返した。男越しにナターリアに伝わるが、彼女はちょっと困ったように眉尻を下げた。

「ナターリアは明日は来れないそうだ。別に用事があるんだと」

「あ……そうなんだ」

 無理もない話だった。向こうにも都合があるのだから毎日来れる方がおかしい。少年にもそれぐらいの分別はつくが、────明日は退屈になっちゃうんだな、と寂しそうな表情は隠せなかった。

 そんな少年の頭を男が小突いた。

「その顔やめろ、ナターリアが困る」

 指摘されてナターリアの顔を見て、慌てて少年はへにゃっと笑った。この子を困らせたくない、男の意地の芽生えのようなものだったのかもしれない。また今度ね、と言い換えたのを男に伝えてもらい、そのままナターリアとはつとめた笑顔で別れた。

「お前明日も暇なのか」

 頑張る必要はなくなったので俯いていると、後頭部に無骨な声が降ってくる。
18:◆77.oQo7m9oqt:2017/10/12(木)01:01:49 ID:sHC

 見上げて頷く。考えるまでもなくずっと暇だった。

「俺らは明日も来るぞ。お前もやることないなら来い」

 何気ない言葉に目をしばたたいた。

「……いいの?」

 少年と男たちを繋ぐナターリアはいないのに。男は呆れた顔をした。

「いいに決まってる。一回でもおんなじボール追っかけりゃもうアミーゴだ」

「アミーゴ?」

「友達、な。俺もお前もナターリアもさ」

 腹の底から喜びが湧き上がってくるようだった。感情を隠すことなく少年は「うん!」と頷いた。

 頭をぐしゃりと撫でられる。

「まあせいぜい練習しろ。サッカー上手くなれば女にもモテるからな」

 男は口角を上げてニヤッと笑った。

「ナターリアの気を惹きたいだろ?」

 少年には理由がわからなかったが、出された名前に顔が一気に熱く火照った。その表情が返答になって男が噴き出す。少年はむくれて顔を背け、背中に笑い声を受けながらそのまま小走りに帰途へ着いた。
19:◆77.oQo7m9oqt:2017/10/12(木)01:02:31 ID:sHC



『────次は、稲荷台。稲荷台です。お降りの方は降車ボタンを……』

 がたん、と揺れた座席にまどろみから引っ張り起こされた。タイミングよく聞こえたアナウンスにしたがってボタンを叩く。

 ボヤける目を人差し指の腹でこすった。

 窓の外はささやかな雨が降っている。雲の切れ間はにじむ日差しが銀色に光っている。そこまで酷い悪天候ではないが、雨はもうしばらく続きそうだった。

 ずいぶん久しぶりに懐かしい夢を見た。まだもうしばらくは『少年』と呼べる彼は、降りる準備をしながら複雑な気分になった。

 まだ幼少だったころの遠い記憶は、今でも鮮やかさは失っていない。肌を焼く太陽も、重たく蒸す空気も、シンから熱を持つようなあの感情も。とにかく暑い夏だった。

 クラブのチームメイトと揃いのスポーツバッグを肩にかけ安物の傘をさしてバスから降りた。透明のビニール越しの空に見えない太陽を想う。────まったく、いったいいつまでズルズルと。

 一人称も変わり、春機発動期も過ぎて男の盛りを迎え、声も一段低くなったというのに。

 少年はいまだに初恋を引きずっている。
20:◆77.oQo7m9oqt:2017/10/12(木)01:03:13 ID:sHC



 ナターリアは三日に一度ぐらいのペースで公園の中のあの場所にやって来た。男たちは三日に二日はあの場所へ来ていた。つまり男たちと過ごす時間の方が多かったが、少年の心に強く残るのは彼女との思い出だった。

 サッカーに限らず、あの小さな空間に限らず、二人はいろんなところに行っていろんな遊びをした。

 芝の上でかけっこをした。拾ったダンボールをソリに使ってなだらかな坂道を滑った。木によじ登って遠い景色を眺めた。路地販売のジューススタンドでお小遣いをはたいて買った新鮮なトロピカルジュースを、ベンチに並んで座って飲んだ。

 言葉が通じないということは二人の間に障害を作らなかった。ひょっとしたらあったのかもしれない壁は、おそらくナターリアが一方的に乗り越えた。

 日本語と現地語の両方を解するあの日系三世の男がいなければ意思の疎通は図れない。それでも少年がナターリアと同じ時間を過ごせたのは、彼女の人柄によるところが大きい。

 いつだってナターリアは笑っていた。かけっこで少年に負けたときは彼を褒め称えて、ソリからずり落ちて転げた少年を見たときは愉快そうに、木の枝に頭をぶつけたときは照れたように、おいしいジュースを飲んだときはとびきりに。

 ずっと横におひさまみたいに笑っているナターリアがいたから、どんなことも楽しく思えた。つられて笑ったし、それだけで楽しかった。

 一緒にいたいと心から思った。
21:◆77.oQo7m9oqt:2017/10/12(木)01:03:48 ID:sHC

「────それがnamoro、恋ってやつだ」

「……よくわかんない」

「ま、お子様だもんな。まだまだな」

 つま先でサッカーボールを弄びながら男は言った。子供扱いはあまり面白くないが、実際子供なのだから仕方がない。

 ワン、ツー、スリー、と足の甲で三度リフティングし、それからゆるく蹴って少年にパスをした。胸でトラップして足元へ落とすと、男の拍手がやや芝居掛かった音を鳴らした。

「上手くなったもんだ」

「まあ、うん」

 ひと月の間、ほぼ毎日ボールに触ってれば全くの素人でもこれぐらいはできるようになる。

 仲間内での少年やナターリアの扱いはいわゆる『ごまめ』で手加減もハンデもアリアリの特別扱いだったが、それでもなんだかんだ負けず嫌いな男たちに少年は揉まれていた。上達はしてしかるべきである。

「……モテないけどね?」

「はっはっは!」

22:◆77.oQo7m9oqt:2017/10/12(木)01:04:22 ID:sHC

 少年は刺すような視線を送ったが、男は笑って流した。ナターリアの気を惹きたいだろ? 言われた言葉は忘れていない。それを気にしていることがすなわち恋なのだということを、少年はそのときまだわかっていなかった。

 気づいたのは夏の盛り。キリストの復活祭の手前、四旬節のさらに少し前。

 世界最大のパーティと称される、リオデジャネイロのカルナヴァルの期間だった。
23:◆77.oQo7m9oqt:2017/10/12(木)01:04:43 ID:sHC



 その日、街全体を貫くようなホイッスルの音に少年は飛び起きた。次いでギターをかき鳴らす音、ウクレレの兄弟楽器カヴァキーニョのリズムをとる音。後に続くのは個性豊かな打楽器群だ。

 枕元の置き時計を見ると、まだ時間は午前七時を回ったところ。────前日、朝から騒がしくなるぞとナターリアや男たちが嬉しそうに言っていたが、まさかこんなに早くから。

 時も場所も選ばない無礼講は毎年のことだった。街中が厳粛な雰囲気を持つようになる復活祭前の四旬節。そうなってしまう前に遊び倒しておくのがカリオーカ(リオっ子)の矜持である。店も食堂も企業も、ほとんどが休業して人々はその熱狂に包まれる。

 窓の外にはすでに通りに人混みが出来上がっていた。

 少年の部屋に入ってきた両親がその賑やかさに苦笑しながら言った。彼らも騒ぎに叩き起こされたクチである。

「ご飯食べたら遊びに行こうな」

 仕事がちな両親も、この期間はカーニバル休暇で体が空いている。少年は目を輝かせて頷いた。

「うん!」
24:◆77.oQo7m9oqt:2017/10/12(木)01:06:03 ID:sHC



 人も空気も狂ったようだった。熱が熱を、騒ぎが騒ぎを、笑い声が笑い声を煽って祭りの勢いは膨らむばかり。

 すでに始まっているパレードの人波に紛れて逸れてしまわないようにと、少年は両親と手を繋いだ。

 踊り笑いながら行進する人々は、それぞれ規模は違えどほとんどが仮装して楽器を持っている。下調べをしていないお上りさん状態の日本人親子三人はやや浮いていた。

 人の流れは少年たちの家がある西部地域からリオの中心、ダウンタウン・セントロへと向かっている。セントロを南北に貫くリオ・ブランコ大通りは最大規模の街頭パレードが行われる場所だった。

 とりあえずそこまで行ってみようか。父親が何気なく言い、少年は母親と頷くと、

「ちょっと待てお前ら」

 呼び止める声と同時に父親のポロシャツの襟首を浅黒い手が引っ張った。繋いだ手に少年も引かれ、連なる母親も付いてくる。そのままパレードの流れからは外れて、ストリートの隅っこまで連れていかれた。

「……おじさん?」

 父の襟首をひっ掴んでいるのと逆の手をひらひら上げ「Ola」と少年には見慣れた男は言った。
25:◆77.oQo7m9oqt:2017/10/12(木)01:06:42 ID:sHC

 誰、と目で問う両親に「一緒に遊んでる……」とまで応えると、察した二人はいきおい腰折り頭を下げた。日々の夕食時の話題のタネはもっぱら少年の口から提供されていたからすぐにわかる。

「いつも息子がお世話になってます! ……ああ、ええとポルトガル語だと……」

「ああ、いらんいらん。わかるよ日本語。あとお礼もいらん、友達と遊んでるだけだからな。……それはいらんけど」

 三人の姿を改めて見回して、男は呆れてため息をつく。

「仮装と楽器はいるだろうが。手ぶらに普段着でカーニバル参加なんて俺は許さんぞ」

 言った男は、鳥の羽根があしらわれた冠を頭にかぶっていた。日本ではおよそ見慣れない。

 ついて来い、と男が向かった先は西部地域と南部地域にまたがるあの市民公園だった。例の遊び場には親しんだ男たちがいつものように集まっている。いつもと違っているのはその服装と持ち物、それから数人の女性もいたことだ。

 どこかの国の王子さながらのコスチュームを着ていたり、半裸の踊り子衣装だったり、甲冑を身につけていたりと様々である。

 持ち物は無論楽器で、バスドラム役のスルド、手持ち太鼓のタンボリン、スティックで奏でる二連鉄琴アゴゴ、ブラジルタンバリンことパンデイロ。打楽器が見本市のように各種揃っている。
26:◆77.oQo7m9oqt:2017/10/12(木)01:07:16 ID:sHC

 しかしそんなのには目もくれずに、少年はひとりの少女に反応した。

「ナターリア!」

 呼びかけると振り向いて、ナターリアはパッと笑顔を見せた。その顔にはアマリリスのペイントが咲いている。いつかのような、だけどちょっとデザインの違う真っ白のワンピースをまとっていて、特別な衣装は着ていない。────残念、という気持ちが少しだけ湧く。

 ナターリアはおはよう、とややたどたどしい日本語で言った。少年が少しずつポルトガル語に馴染むかたわら、彼女も彼の言葉を理解しようと努力していた。それがやみくもに嬉しい。

 頭のてっぺんからつま先まで、見定めるようなナターリアの視線が通り過ぎた。それから彼女は肩から下げていた淡いブルーのポシェットの中を両手でまさぐる。

 出てきたのはペイントシールだった。カラフルな模様が散りばるシートには一箇所、切り取られた空白ができている。ナターリアの顔に咲くアマリリスもこのシールだった。

 祭りも始まっているのにこれから仮装を用意するのも難しい。また、そうでなくとも格好はお手軽なボディペイントで済ませる人も少なくない。

 ナターリアはシートと少年の顔を見比べる。端っこを手で丁寧に破り取り、残ったぶんはポシェットへ。
27:◆77.oQo7m9oqt:2017/10/12(木)01:07:36 ID:sHC

 透明の保護膜を剥がした。シールはスタンダードな転写式である。ナターリアは少年に一歩あゆみ寄って準備したシールを彼の左頬に当てがった。

 ────うわ。と少年は声が出そうになった。ペイントシールの存在すら知らなかった彼は、ナターリアが何をしているのかわからなかった。作業をぼうっと見つめていると、シールを貼るために不意に彼女の顔が目の前にきたのだ。

 自分でうるさいぐらいに鼓動の音が響いた。転写のための濡れたハンカチを当てられる。ぬるくなっているはずのそれが冷たく感じるほどに顔が火照っている。

 たまらず身じろぎしそうになったところ「Nao se mexa!」動かないでとぐっと顔を押さえられ、それがまたたまらなかった。

 三十秒ほどそうしてから、ナターリアはゆっくり手を離した。するとブラジルの国鳥トゥッカーノのペイントは、シートから少年の顔に飛び移っていた。
28:◆77.oQo7m9oqt:2017/10/12(木)01:08:03 ID:sHC

 ナターリアが差し出したコンパクトミラーを覗き込んで賑やかにはしゃぐ子どもたちの様子を遠巻きに眺めながら、少年の両親は安心したような息を吐いた。

 いい子がそばにいてくれてよかったな。ええ、本当に。目を合わせてそんな会話をしようとして、────しかし男が間に割り込んだ。

「あんたらは衣装着るか? 大人用なら余りがあるんだ」

 男が手に持っていたのは露出の際どいほとんど下着のサンバ衣装。丁重にお断りする二人の声は綺麗に重なった。
29:◆77.oQo7m9oqt:2017/10/12(木)01:08:39 ID:sHC



 手にはペットボトルに砂利を入れた即席のシェイカーを持って、少年は両親と友人たちとパレードに参加した。拡声器ナシでも地を割ってしまいそうな歓声と共に街中を練り歩く。

 少年たちは一団と言っていいぐらいの大所帯だが、別段目立つこともない。万規模の人混みでは数十人が固まったところで目立ちようもなかった。

 各々の楽器をがなり立てながら、ある人は軽快なステップを踏んで、あるいは情熱的な振り付けを見せて、進む人々はみな一様に歯を見せ笑う。

 ナターリアもダンスが堪能だった。ルンドゥ、サンバ、ベリーダンスと、小さな体をめいっぱいに使って大きく踊る姿に少年は息を漏らした。ダンスの難度や習熟度はさっぱりわからない。だからこそ、大人たちと並んで踊ることのできる彼女がただただ眩しい。

 目を細めながら楽しそうなナターリアを見ていた。それだけでも満足だったし、それ以上を少年が自分から望むことはできなかったから、

「Vamos dancar!」

「一緒に踊ろう、って」

 ナターリアが笑顔で差し出してくれた手を取るのはためらわれた。混ざれない、というよりは、混ざりたくなかったのだ。
30:◆77.oQo7m9oqt:2017/10/12(木)01:09:43 ID:sHC

 ナターリアとは違って、できないから。できる彼女にできない自分を見せたくない。それはとてもみっともなく思えてしまって、少年は曖昧に笑って「ぼくはいいよ」と応えた。

 言うやいなや通訳役の男が「バカ」と罵る。

「カッコつけたいんだろうけど、ここは行かない方がカッコ悪い」

 耳元で諭され、返事によどんで視線をあちらこちらへうろつかせた。少しの時間を待たせてしまう。ちらりと視線をナターリアに戻すと、それでも彼女は変わらない笑顔で手のひらを少年に向け続けていた。

 そんなナターリアを見て、年端のいかない少年にも男の言葉の意味がちょっとだけわかった気がした。

 できるできないは関係ない、ただ一緒の時間を共有したいと女性から無垢に誘われて、それをみっともないところを見せるかもしれないからと無下に断るバカでガキな男。どれだけとんちんかんで格好つかないことか。

 不安を飛ばそうと笑おうとしたが苦笑になった。そっと伸ばした手は力強く引っ張られ、リズミカルに踊る輪の中へ入った。

 もちろん少年にダンスの素養はないので、見よう見まねに身体を動かすことしかできない。それでもナターリアは混ざった彼を見て笑みを一層深くした────当然、そこにイヤな意味など一切なかった。

 そんなナターリアの表情を見て、少年もやっと心から笑った。
31:◆77.oQo7m9oqt:2017/10/12(木)01:10:11 ID:sHC



 空まで届けと鳴り響く打楽器と歌のリズムに包まれ、時間はあっという間に過ぎていった。

 カーニバルは夜通し続く。しかし昼前から遊びに出ていた少年の体力は街がオレンジに染まるころに限界が来た。

 そろそろ帰ろうか。疲れた様子の少年を見かねて父親が提案した。

 疲れ知らずの現地の彼らとナターリアは夜から始まるサンバ・コンテストも見て帰る予定だと言う。その会場の前で別れる流れとなった。

 おぶるよ、という父の申し出は少年が蹴った。疲労は結構なもので飛びつきたいのが本音だったが、ほとんど反射で応えていた。

 どうしてだろう。笑顔で手を振るナターリアに手を振り返しながら不思議に思って、すぐに気づく。さっきと同じでカッコつけたいからだ。そしてそのカッコをつけたい理由は、

 ────つまりそれが恋ということなんだろう。

 理解した少年の顔は薄く赤らむ。その理由を夕焼けが綺麗だからで片付けることはできなかった。
32:◆77.oQo7m9oqt:2017/10/12(木)01:11:15 ID:sHC



 降りしきる雨と路傍の水たまりがスニーカーのつま先を濡らしていく。予報では今日の晩までは降らないと言っていたのに、まるでアテにならない。

 曇り空が薄暗いせいで時間がわかりづらいが、すでに昼時だった。空腹に泣きそうな腹に力を込めて家路を急いだ。背中のスポーツバッグには母親謹製の弁当箱が入っている。せっかくのそれもあいにくの雨で自宅で食べることになりそうだった。

 バス停から五分も歩けば少年の今の家はある。転勤族の両親のおかげで、幼い頃からいろんな地域を転々として生きてきた。

 少年も昔はそれをずいぶん恨んでいた。

 帰り着いた家には誰もいない。ジャージのポケットからサッカーボールのストラップがついた鍵を取り出す。

 玄関のたたきにバッグを下ろし、濡れてしまった靴下と上着を脱いで、入ってすぐ左にある脱衣場の洗濯カゴへ放り込んだ。バッグから弁当箱の包みと水筒を引っ張り出してリビングへ向かう。

 照明のスイッチを入れた。生来からか後天的にかは定かでないが、静まった空気は好きではない。ガラステーブルに昼食を置いてテレビを点けた。

『────お昼のニュースです。本日』『まーた不倫ですか、もう最近聞き飽きましたよね』『ショッピングターイム! 今日の指定色は』『お料理さしす』『どうしてこんな……っ、一体だれが!?』

 ザッピングしたが興味をそそられるものがない。回し切った最後の局はよくあるお昼のサスペンスドラマを放送している。アイドルMCの料理番組とそれとで迷ったが、料理に興味のない少年は結局チャンネルは戻さなかった。

 お慰みに哀しい殺人劇を眺めながら弁当をつつく。内容がろくすっぽ頭に入ってこないのはやはりさっきの夢のせいだった。
33:◆77.oQo7m9oqt:2017/10/12(木)01:12:48 ID:sHC

 初恋を確かに実感して、しかし少年は何もできなかった。

 あの熱に浮かされたような日のあと、しばらくは少女となんら変わらない日々を過ごした。というよりも、初めての感情を持て余して何も変えることができなかったと言う方が正しい。

 ようやっと気持ちの整理がついた、そのときにはもうカーニバルが終わって二週間ほどが経っていて、

 そうしてまごついている間に母から再度ごめんねと謝られる日が唐突に来た。二度目のことに幼い少年もさすがにすぐにその意図を察した。

 なるほどまたお別れらしい。こみ上げるモノに押されて目が腫れるほどに泣いた。あれほど泣いたのは後にも先にもたぶんない。

 残された時間はわずかながら確かにあった。しかしその時間は抗えない事実に傷心し、何もしようとせず布団に潜り込むばかりで、結局あの子には別れさえ伝えられないままにリオ発の日本便に乗ることになった。

 半年にも満たない月日を共にしただけの遠い国の初恋の少女が忘れられずに今の今まで引きずっている。まったくどこの少女漫画のヒロインかと他人事ならば少年だって笑ってしまいそうだが、それが自分のこととなると途端に始末が悪くなる。

 きっと少年以外の誰もが話を聞けば呆れるか笑うかの二択を取る。それがわかっていてもなお記憶は褪せることがない。

 忘れたいと思った日もある。忘れられないほどに鮮やかだった。

 最後の玉子焼きの一欠片を口へ運んで箸を置く。着替えるのも面倒くさくてスポーツウェアのままラグの上に体を転がした。
34:◆77.oQo7m9oqt:2017/10/12(木)01:13:13 ID:sHC



 ────Tchau, Ate mais!

 跳ね起きてその反動でスネをしたたかにテーブルの底に打ち付けた。涙がにじむほどの痛みに体を丸める。

 クソ、なんだってこんな夢。打撲箇所を押さえながら少年は呟いた。

 意識を手放してしまっていた。そのまっくらな世界の中で、いつかみたいなあの笑顔で、じゃあまたね、と手を振る小さな姿を見た。痛いやら情けないやら。

 ゆっくり起きてさすりながら時計を見ると、針がえらく進んでいる。三時間も寝て気分もさっぱりするはずだろうに痛みのせいで寝ざめは悪い。

 『はいはーい、土曜午後のシンデレラ! 今回もそろそろお別れの時間だねー! 本日紹介した新人アイドルたちの初舞台は……』とテレビも番組が変わってしまっている。結局誰が毒殺の犯人かもわからずじまいだ。別に知りたいとも思わないが。
35:◆77.oQo7m9oqt:2017/10/12(木)01:14:16 ID:sHC

 ほどなく痛みがおさまったところで、乾いてカピカピになってしまっている弁当箱と箸をキッチンの流し台に持っていく。

『それではみんなー? せーのっ! でいくよ?』

『サヨウナラー!』

『ちょーいちょいちょい、待った待ったナタりー、今のは違うよつぎので合わせるの!』

『アレ?』

 ────行こうとして、空の容器が手から滑り落ちた。フローリングを叩いて小気味好い音を鳴らす。
36:◆77.oQo7m9oqt:2017/10/12(木)01:14:47 ID:sHC

 ちょっとしたハプニングに笑う声がテレビのスピーカーから聞こえる。そのハプニングを起こした少したどたどしい日本語を話す声は、耳から入って全身を駆け巡るようだった。

 やおら振り向く。嘘だろう、と動かした口からは声が出てこなかった。

 黒いグラデーションボブの髪に、健康的な褐色の肌。心底から楽しそうな、────おひさまのような笑顔がそこにあった。

 落とした弁当箱もそのままにテレビに縋り付いた。年相応に成長して背丈も体格も、声も少し変わっている気がする。しかしそれでも見紛えようもなくその笑顔はナターリアだった。

 日本に来たのか、だとか、どうしてアイドルに、だとか。疑問は止めどなく出て来ては少年の胸中でぐるぐると回った。

『改めまして、それではせーのっ』

『サヨウナラー!』

37:◆77.oQo7m9oqt:2017/10/12(木)01:15:45 ID:sHC

 番組でMCを務めていたアイドルが音頭をとって、別れの言葉はそのスタジオにいた全員の声が重なって響いた。時間が来て、番組が切り替わる。夕方のニュースが始まることをキャスターが平坦な声で伝えた。

 感情の整理がつかなかった。それはそうだ、初恋の遠い国の少女とテレビ越しに再会、それも向こうは海を越えてこの国でアイドルになっているという。早々飲み込めるものじゃない。何が起こったのか正直受け止めきれていない。

 ただ、どう思えばいいのかさえわからないけれど、なんだか無性に笑えてきてしまった。こらえることもせずに声を出して笑う。どうせ家にひとりだ、気をつかう相手もいない。

 そんなことってあるのかよ。さっきのあれは、まるで予知夢のようじゃないか。

 ひとしきり笑ってから、目尻ににじんだ雫を拭った。

 テレビを切って床に放ったらかしにしていた弁当箱を流し場に持って行き、シンクに手をついてふっと小さく息を吐いた。
38:◆77.oQo7m9oqt:2017/10/12(木)01:17:37 ID:sHC

 ああ、もしかしたらと少年は思う。

 あのとき言い忘れた言葉を、届けにきてくれたのかもしれない。何を言っているのかときっと誰もが呆れるだろうが知ったことではない。


 自分の初恋の終わりぐらい浸ったっていいだろ。


 単なる一般人、ただの高校生に過ぎない少年が、アイドルに恋を抱くだなんて、そんなものは無謀に過ぎる。
39:◆77.oQo7m9oqt:2017/10/12(木)01:18:21 ID:sHC

 思い出すものがあって自室へ戻った。クローゼットを開けて奥の奥にしまい込んでいた段ボール箱を引っ張り出す。フタには拙い『おもちゃばこ』の文字がのたくっている。

 一番上にはサッカー選手のトレーディングカードをしまったファイル。どかすと懐かしいものが次々出てきた。キャラもののトランプ、自動車の模型、でんでん太鼓、レゴブロック、クレパス、猫のぬいぐるみ。

 全部出し切ったその底に、不思議なほど綺麗な状態の封筒があった。カナリア色の花のプリントにも汚れひとつ付いていない。

 カーニバルのあと、少年が気持ちの整理がつくまでに書いたものだった────結局渡すこともできなかったが。

 誰にも知られたくなかったから、両親が使っていた辞書やポルトガル語の入門書をひとり必死にめくって書き上げた。封じた便箋には拙いポルトガル語が踊っているはずである。

 勉強机の筆立てからボールペンを抜き、封筒の宛名と宛先にはさっきテレビで見た芸能事務所のものを綴る。切手は郵便局で頼めばいい。
40:◆77.oQo7m9oqt:2017/10/12(木)01:19:17 ID:sHC

 封筒を持って玄関を出ると、雨が上がっている。

 雲は空を覆いきれてはいなくて、隙間から顔を出す太陽は笑うように輝いていた。遠く見える山の中へと沈んで行こうとしている。

 じきに日が沈む。

 家の外に出てから一応中を検めようか思ったが、やっぱりやめた。見てしまったらこっぱずかしくて破りたくなるような気がした。

 いいかげん十年近く引きずって淡さは擦り切れ、純粋さにいろんなモノが混じって重たくなってしまったこの言葉。だけどきっとこの形ならば喜んで受け取ってもらえることだろう。
41:◆77.oQo7m9oqt:2017/10/12(木)01:19:53 ID:sHC

 確か書き出しは、


 Querida Natalia,

 ────ナターリア様へ。

 Eu gosto tanto de voce.

 ────あなたのことが、大好きです。

42:◆77.oQo7m9oqt:2017/10/12(木)01:20:36 ID:sHC




「……ナターリア? 何読んでるネ?」

「フェイフェイ! コレはネ、えへへ」


「────ファンレターだヨー♪」





おしまい。
43:◆77.oQo7m9oqt:2017/10/12(木)01:22:07 ID:sHC
終わりです。
モブものが好きなんですが、ちょっとやり過ぎたかもしれない。

ご覧いただいた方、本当にありがとうございました。
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10月12日 22時09分|モバマス0コメント

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